その次、、

ロバートの家を確認で来て安心した僕は、この日予定を変更して、
ボストンの周辺を探索する事にした。 
でも車があるわけではないので、ホテルを出る際に手にした観光パンフレットが頼りだ.
まずはボストン駅近くのマーケット、、
ふるーいアーケードのある幅10メートルくらいの道が全体新鮮な野菜や小物、
そして色んな人達の手作りの品が並ぶマーケットだ.
すっかり時間の過ぎるのも忘れて、ひとびとの話に耳を傾けたりしてみて回った。
そして一軒の手作りの手袋やさんを見つけた。
ミトンで中が暖かそうなフワフワの毛皮を使った手袋、
小さい赤ちゃん用の真っ赤な手袋が目に入った.
その鮮やかさに惹かれて、大きさを違えて、3組買う事にした。
冬でも雪が降る事はそうない宮崎で、これが必要とは想えなかったが、
旅の記念と言う気持ちもあった. 
買物気分を充分楽しんで、ベンチに越し掛け、
次の探索を決めようとした時、観光パンフレットから目に飛び込んで来たのは,
’60年代のアメリカ大統領、ジョン.F.ケネディーの名前だった.
彼の生家が、このボストンの近郊にある.
そうだ行って見よう.
それには、一寸訳がある.
僕は中学を宮崎市内のカトリックの私学校に学んだ.
一学年、50人のクラスが二つの小さい学校で、運動会は、併設の高校と一緒に行ってた。
そしてそのお昼の時間の出し物に、恒例になってた仮装行列があり、
2年の時にその役柄を決める再に講堂に行って見ると、
その年のテーマは、“歴史上の偉人”と言う事で、
色んな名前が段上の黒板に書いてあった.
そしてその人物を誰がやるのか順番に決めていたのだが、
僕はある人物の時に手をあげて前にすすむと、
20数人の人が手を上げたにもかかわらず、
進行係りの人が僕を指差し決めてしまった.
先ほどから繰り返されてたジャンケンもなく、、
そして周りもあっさりとそれを見とめてくれた.
と言うのも、一年の時に童話の主人公で、
シンデレラをやってたので、周りの皆もその事は知ってたから、、、
この年の役は、前年、ダラスで凶弾に倒れたジョン.F.ケネディーの奥さん、
ジャクリーヌ夫人だったのだ。
運動会までに衣装を集める事になるのだが、
家業は衣料品店で、姉一人、妹二人の環境では、それも容易い事だった.
ケネディーや、フルシチョフが、大きなかぶり物での参加だったが、
僕はスカーフをかぶり、坊主頭を隠して、ブラウス、スカート姿で、
その上に立派に化粧もしてすっかりジャックリーヌになって、運動場を回った.
日頃男だけの学校は、大きな歓声に包まれたのは言うまでもない。
それもあり、ジョン.F.ケネディーの名前を見つけた時には、
なにかの縁もありなんと行って見たいと想った.
地下鉄を乗り継ぎ、地図を肩手に何人かに場所を聴いて着いた先に見えた家は、
ヘルメットを被った数人の人が見え隠れする工事中の状況だった.
家の階段を配した入り口に、工事中の髪が張られてたが、
その一人に声を掛け、日本から尋ねてきた事を告げると、
階段に張られたひもを外して中に招き入れてくれた。
家の中は想ったよりの作りが小さく、
背の高い人だとかなり窮屈な感じを受けるだろうと想った、
工事の人に例を行って、ボストンの下町にもどり、楽器やさんを探してみた.
どの町に行っても臭いだろうか、一番最初に楽器屋さんの場所が分るのだが、
アメリカではその臭いが違うのか、ボストンで楽器屋さんを探す事は出来なかった。
そもそも下町にはなかったのかも知れない.
ケンブリッジや、学生街にはそれに応じたお店が並んでたろうから、、、
そして今日も歩き疲れた足を引きずり、安いホテルに辿り着いた.