震災から10年

阪神、神戸震災から10年、 
時の過ぎる速さを感じる。
朝、テレビの画面で知った惨状は想像を絶する物だった。
でも、ほら、やっぱり、、て感情が心のどこかにあった事も否定できない。
自分が何を出来るか見当も付かなかった。
そして何日か過ぎた時に、
まちおこしの全国大会が岐阜で行われるけど行きませんか?”と、
町役場から電話が入った。
すぐに”行きたい。”と返事した。
“その替わり、夜の飲み方には参加しないけど、、、“
“それは大石さんの責任で、、、“と役場の係りは言った。
震災から一ヶ月後の2月15日、朝の名古屋行き飛行機で飛立ち、
岐阜の会場、市民会館に移動。
形道理の講演を聞いて、宿泊先のホテルへ、
そこで、県の係りの人に、今夜別行動で、大阪に入り、
神戸にボランティアに行きたい旨を伝えた。
大阪に向かう新幹線の中で、こんな時に“まちおこし”で出来る事を
少しでも体験しておくべきではないのか??と想いながら、、
その夜は大阪のビジネス街のホテルに泊まったが、
明日何をどうすべきなのかおもいが巡り寝つけなかった。
朝起きて、梅田から電車にのると、周りは、ごく普通の光景で、
会社に急ぐサラリーマン、通学の高校生、そしてスキーに行く若者のはしゃいだ声。。
しかしモノの10分もすると、車窓の光景は段々と替わり始めた。
瓦がなくなった家屋、壁が外れかけた店、ガラスの入ってない窓。
そして倒壊寸前のビル。
電車は目的地の神戸には行けず、途中で終点の駅に就いた。
そこでホームを出て、階段を下り国道の横に設けられたレンタル自転車屋さんによって、
自転車を借りた。
自転車をこいでおよそ一時間、神戸駅の前の交叉店に差し掛かり、左折して市役所を目指した。
市役所の国際交流課に、宮崎の交流員を通して連絡を入れてあり、
ボランティアに参加する事にしてたからだ。
そして市役所の前の交通整理をする事になった。
明日がちょうど一ヶ月目で、マスコミの車などでこむ事が考えられるからと係りは言った。
一時間ほど道路脇で交通整理をしてたら、代りの人が来て休んでくれとの事だったので、
ロビーに入り,周りを見ると、そこは家の壊れた人達で一杯だった。
壁に、“水を運んでくれる人募集“の文字が書かれた紙が目に入った。
すぐに電話を入れると、人出が足りなくてこまってるとの事だった。
それで、市役所の係りに電話をして、
“折角ですけど、私の力を必要としてる所があるので、、、“と交通整理を断り、
自転車に乗って神戸市民病院に向かった。
受付で、先ほど電話をした物である事。3日ほどボランティアとして働ける事。
そして住所などを書いて仕事に就いた。
病院は、8階建てだったと想うが、エレベーターは普通に動いてたので、
階段で運ぶわけではなかったが、ポリ管いっぱいに入れた水は重かった。
消毒用のお湯を沸かしたり、お風呂に使ったリ、水の必要性が身にしみた。
夜の御飯の時に、そこにボランティアに来ている全員が一つの部屋に集まって御飯を食べた。
韓国からキリスト教大学生が10人くらい来てた、そして若い日本人が4〜5人、
食事の手伝いにきていた近くの団地の主婦が、4〜5人、そしてわたし。
韓国の大学生達は、自分達で持ってきてたキムチの漬物を皆で廻して食べてた。
食事が終わると、韓国の大学生の一人がなれない日本語で話かけてきた。
英語で答えると、喜んで、英語で話始めた。
そこで、急遽、皆が車座に座って、色々な話を、韓国語=英語=日本語=英語=韓国語
と今まで話したくても話せなかったのか、いろんな質問を出し会った。
主婦の方達も時間を忘れて話しに加わってた。
日本の若者達は、皆登校拒否児だった。
確かに一ヶ月も過ぎて学校を休んでて良いハズはなかった。
でも彼,彼女達は、自分達の行動が周囲の人達に喜んで貰ってる事が嬉しかった様子で、
顔は笑顔に溢れていた。
今年も全国大会がある、2月16日、奈良県
その後、新潟に行って見ようかと考えてる。
家の登校拒否児を連れて、、、